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取次(とりつぎ)は、本来は伝達元と伝達先の間に介在して情報等を相互に伝達する行為やその役割に当たる者を意味する(取次 (歴史学)参照)。こんにち、豊臣政権における「取次」が豊臣政権研究にとって不可欠の考察対象となっており(詳細後述)〔山本(2009)pp.208-209。原出典は津野倫明「豊臣政権の「取次」蜂須賀家政」(2001)〕、そのため本項では主に豊臣政権における取次について扱う。 == 「取次」の定義 == 戦国時代にも大名間の交渉に取次を置いて仲介させる慣習が広汎に存在していたが、1984年(昭和59年)に山本博文が発表した論文「家康の『公儀』占拠への一視点-幕藩制成立期の「取次」の特質について」以降、豊臣政権の研究における権力構造やその移行を考察する上で取次の存在が注目されるようになり、豊臣政権研究にとって不可欠の考察対象となった〔。 本項で取り扱う取次は、豊臣秀吉の独裁色の強い豊臣政権が、他の大名に対する統合・統制をおこなう上で政権と大名の間に介在させた特定の人物および彼らによって担われた機構である。彼らはまた「申次」や「指南」とも呼ばれた〔木下藤吉郎時代の秀吉も、主君織田信長に命じられて毛利家(当主は毛利元就)との外交交渉をおこなっており、そのことは永禄12年(1569年)3月18日の小早川隆景宛書状によって確かめられる。書状のなかで秀吉はこの職務を「申次」と表記しており、職務としては「取次」同様外交交渉ということであるが、「申次」の語は「命じられておこなうもの」という意味合いをもっていたと考えられる。山本(2009)pp.189-190〕。 山本によれば、豊臣秀吉はある特定の人物に「諸大名への命令伝達や個々の大名を服属させ後見する」ことを公的に認めた〔山本(1984)〕。これが「取次」である。秀吉は、たとえば、東国における有力大名であった徳川家康や上杉景勝、あるいは側近の浅野長政(当時は浅野長吉と称した)らを「取次」としながら、関東地方・奥羽地方の諸大名に対し、一連の政策を進めていった。また、九州地方の大名に対する寺沢広高や毛利勝信、常陸国(茨城県)の大名佐竹氏や南九州の島津氏に対する石田三成も同様に「取次」の役割を担当した。 豊臣政権は職制の制度化が進まないうちに崩壊したため、「取次」の概念も定まっておらず、それ自体が議論の対象となっている。山本は、その機能によって「取次」概念をとらえ、取次的働きをした特定の人物をも「取次」と称しているが、一方、史料上で「取次」・「指南」と表記される場合に限り「取次」として扱うべきであるとの津野倫明による批判もある〔津野(1997)〕。それに対し、史料のうえで「取次」と表現されていても実態が豊臣政権における「取次」の概念とは異なり、戦国的な外交交渉を行う意味合いでの「取次」を指す場合があり、あるいは史料に現れても役割ではなく動詞としての「取り次ぐ」という意味で使われた場合もあるとの山本による再批判もあって〔山本(2009)〕、注意を要する〔「取次」概念の曖昧性について、山本博文は、「取次」研究は必ずしも完成された制度の考察をめざすものではなく、豊臣政権の大名統制の実体を究明するものであると説明している。山本(2009)p.226〕〔山本博文は、信長・秀吉の政権が天下統一の過程で外交交渉の窓口として設けた「取次」が、秀吉の天下一統後は制度的な任務を帯びたものと理解すべきであると述べている。山本(2009)p.226〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「取次 (豊臣政権)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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